【モンテッソーリ著「子どもの発見」より 6】リトミックは本質的な意味がない?、子どもが走り回る理由は?
P.96位からのメモ&まとめです。
赤い人、白い人
発育に関わる生命=血液の循環組織に属する
外界と関係を持つことに関わる生命=神経系統に属する
赤い人=発達に関わる生命の活動 (肉体の材料)
白い人=環境と関係を持つことに関わる生命の活動(精神の材料)
赤い人と白い人の相互作用がなければ人体のいかなる部分も機能しない
五感とは:
小さな明かり取り窓のようなもので、それを通して生命が精神を形成するのに必要なイメージを吸収する
思考→行動として現れる
感情→芸術作品として現れる
運動しない生活→大脳や感覚器官、筋肉組織からも人工的に切り離される。
肉体が衰える
運動すれば良いという発想
しかしそれは、精神の表現を担う期間を、ただ血液を吸い込んで押し出すという、一種のポンプという次元の低い役割にしてしまった
(この辺りの話、わかるようでイマイチピンと来なかったです・・・)
モンテッソーリの思う「体操」〜リトミックは本質的ではない?〜
体操は、強いられた苦しみ(机に座っていること)に対する、強いられた治療(体操)
これはとても興味深いですね。
「教師は、苦しみと治療を規則に従う子どもに堂々としている」
といったことが述べられており、まさに日本の教育を、マルッと否定している感じがします。
ここで、ダルクローズによって始められた「リトミック」も紹介されています。
「子どもの人格を大いに尊重し、強い垂れた姿勢から身体をほぐす可能性をあたえる」
としたうえで、しかし
「リトミックは「誤って理解された生活への反動」であって、「生活そのものを修正するものではない」
と言っています。
子どもが動き回ることについて
「子どもが動き回って大変!」という思い、ママならきっと多くの人がしたことがあるのではないでしょうか。
そんな子どもの動き回ることについて、モンテッソーリの考えを紹介します。
子どものうちにある動き回らずにはいられない欲求
抑制力が発達してくると減っていく
抑制力は、動きへの欲求と調和しつつ
意志にしたがうように定められたシステムを作るようになる
子どもは成長するにつれ、さらに意志に従順な運動のシステムを持つ
そして他人の意志が子どもの意志に影響を与えると、動きへの欲求を抑えることができる
これが、動物を植物と分ける特徴なんだとか。
また、3歳の子は縦横無尽にとにかく走り回る、9歳は歩いて無駄に動かない、
それは、足の長さや作りも関係してるのだとか。
幼児は足の長さは32/100、大人は50/100。
子どもが走り回る理由は?
子どもが走る理由については、
子どもの足が短いのでバランスで普通に歩くのが大変。なので、それを隠すのに走っているのだとか。
年齢別の休憩姿勢
休息の必要性を感じると、上半身を地面に伸ばして足を上げ、
乳幼児は、上半身を仰向けに伸ばし、上げた足を掴むのが自然な姿勢。
さらに大きくなると、
3〜5歳ぐらいの子どもは、
うつ伏せに寝て、足を上げて、肘を上げて両肩を支えるのが自然な姿勢。
モンテッソーリ教室に絨毯が必要な訳
腹部を地面につける姿勢が好きな子ども。
それを促すために、モンテッソーリの教室には絨毯があって、自分で広げて使える用意なっているのだそうです。