「SDGs」と「モンテッソーリ」と「共育」と

モンテッソーリ、SDGsなどについて勉強している、1歳児 母です。 まだ人として未熟なアラサーな私。自分も子供と一緒に育ちたいなと思い「共育」(共に育つ)を意識して、日々楽しくすごせるよう模索中です。 1歳にして3匹の猫を手なずける「猫使い娘」。たまに3匹の保護猫たちも登場します。 アメリカやオーストラリアに住んでいたので、英語が好きです。モンテッソーリ、SDGsも英語の良い記事などの和訳を発信できたらなと思っています。

【モンテッソーリ著「子どもの発見」より3】環境・教師のあるべき姿

 現在、マリアモンテッソーリさんの代表的な著書である「子どもの発見」という本を読んでいます。

少しずつ、モンテッソーリさんの生の言葉をご紹介できればと思います。

sdgs-monte-mom.hatenablog.jp

 

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モンテッソーリの重要ポイント。モンテッソーリの語る「環境」

 

観察の方法は

「子どもたちが自由に自分の勧化を表現することができる」

「もし環境に自発的な活動にふさわしいものがなければ、子どもたちの欲求や能力は押さえつけられて表に出ません。

そうなると、観察者は何を観察したらら良いのか迷うことになります。

 

モンテッソーリは、「子どもの家」を作るにあたり、最初に、

学校の各一式をつくらせました。

 

家具のポイントは、

・子どもの身長に合わせる

・理性的に振舞いたいという欲求をもたせるもの

 

  • テーブル

・色々な形のテーブル

・しっかりとした作りで、4歳が2人でもてくらいかるい

 

椅子

・肘掛け椅子

・エレガント

・軽い

・子どものプロポーションに合わせる

・様々な素材の椅子を作る

 

  • 洗面台

・3、4歳が届くひくさ

・タオル歯ブラシを乗せる台が側面にある

・台は白で洗える

 

食器棚

・低い単純な作り

・仕切りは薄いカーテンや、戸

・戸は、それぞれ違う鍵

・鍵は子どもの手が届くところに起き、子どもが自分で開け閉めできる

 

  • 細い棚

・上に生きている魚を入れた鉢

 

  • 部屋の壁

・低い部分に黒板

・家族を描いた優しい絵

・動物の絵

・花の絵(自然物の絵)これらは、日によって替えることができる

 

  • ラファエッロの「椅子の聖母」を複製した色付きの大きな絵の複製

・「子どもの家」を象徴するもの

・社会的に進歩した象徴だけでなく、人間性の進歩も象徴

・「子どもの家」は母性の高さ、女性の進歩、子孫の保護に繋がることを表すため

・イタリアの最も偉大な芸術家の作品

・いつか、子どもの家が世界に広がった時、ラファエロの絵は祖国のことを語ってくれる

 

こちらの「ラファエッロの「椅子の聖母」を複製した色付きの大きな絵の複製」については、以下のように語っています。

 

(一部省略)

子どもはまだ絵の意味は理解できないけれど、

この絵をその他の絵より偉大な絵としてみるでしょう

そして宗教的な感情と憧れとに浸ることでしょう。

それが、環境というものです。

 

この文からも、環境を大人が整えることが、どれだけ子どもの意識に影響するとマリアモンテッソーリさんが考えていたのか、わかる気がしませんか。

 

  • そのほか

・超養鶏の一人用のテーブルなど

→織物のマットを敷いて木の葉や生け花を飾る

 

 

観察の実践

この本の中で、モンテッソーリは、

・子どもが動き回るもの

・椅子やテーブルをひっくり返す存在

という考えは、偏見といいきっています。

 

 

その他にも、学校の動かない椅子や机も、偏見から生まれたものだと記載があります。

 

「子どもの家」では、テーブルや椅子は軽く動くので、自由な姿勢を選ぶことができます。

また、仮に自分のせいで音を立てるような姿勢をとっても、固定された机だとそれがわからず、その感覚も学べない、といった記載もあり、いかに動く机と椅子が重要かを表していました。

つまり、誤りを自分で見つけて、修正したり反省できる感覚を、動区机からも学べるということだと思います。

 

 

規律と自由(P.63)

子どもが動き回る教室でいかに規律を確立するのか?という反論に対して、モンテッソーリは、

「規律もまた、能動的でなければいけません」

人が強いられたときだけ静かにしていたり、おとなしくしているのは、規律を身につけているとは言えない。ただ押さえつけられているだけだと、考えています。

 

このような能動的な規律は、高度な教育の上の原則で、身につけさせるのは容易なことではなく、教師には特別な技術が必要

とも述べていました。

 

子どもがじっとしているかわりに動き方を学べば、

子どもは学校だけでなく実生活に対する準備もすることになります。

 

子どもの自由には、集団の利益という限界がツモなわければなりません。

 

子どもに教える上で、難しいと思ったけれど重要なポイントは以下の箇所かなと思いました。

 

私たちが礼儀と動作の教育と呼ぶ形式を備えていなければなりません。そのために渡した日は、他人を怒らせたり傷つけたりする子どもの行動を全て止めなければなりません。

無作法で粗野な行為も同様です。

しかしそれ以外の全ての行為は、それぞれの振る舞いがその目的が何であれ有益な目的をもっていて、上に述べた形式を備えていれば、許されるだけでなく、教師はそれを観察しなければなりません。

これが本質をなす部分です。

 

個人的に無作法で粗野な行為 の定義がわからないなと感じました。

例えば、子どもが、屋内の公演イベント会場でゴロンと転がって聞いてる時

それは、「下からの景色を見たいから」という意味のある行動にあたるのか、

それとも、

「無作法」になるのか。

モンテッソーリさんの言う定義の範囲が、実践で行うのには難しいなと感じました。

 

モンテッソーリさんの思う、理想の教師像

教師は科学的な訓点によって、自然現象の観察者としての能力だけでなく、好奇心も身につけているはずです。

教師は、活動的である以上にずっと「忍耐強く」なければならないでしょう

教師の忍耐の心は、科学的で強い好奇心並びに自分が観察しようとしている自然現象にたいする経緯から生まれるでしょう

 

生命の開花を援助するためには、自発的な活動を絶対に中断させてはいけません。他の人間の意志による仕事のための行為をさせてもいけません。

役に立たなかったり外になったりする行為の場合は例外です。

これらは押さえつけてもやめさせるべきだからです。

 

モンテッソーリさんの言う、役に立たなかったり外になったりする行為

ってなんだろう。

子どもの行動の大半は、大人にとってみれば役に立たない行為に見える気がする。。。難しい。

 

とりあえず、モンテッソーリさんは、教師のあるべき姿について、たとえ話で

「宇宙の万物が激しく回転しているいっぽうで、某rん今日の前にじっと座っている天文学者のようなものだ」

とわかりやすく例えています。

 

この後、教師の指導の難しさを例と合わせて語っています。

たとえば、

・子どもが初めて他の子の優しさに触れたのに、席に戻りなさいとその場を終わらせてしまうこと

・教師を手伝おうとしてくれる子に席に戻りなさいということ、

・背を伸ばしてみれないものを、椅子を使ってみようとする子を大人が抱き上げること、

・机を音を立てて押すことを注意すること

これらの制止させる行為や、達成感を奪う行為は、モンテッソーリ的にはNGということらしいです。

その子は、その子が自分を教育するのを教師邪魔された状態だそうです。

 

具体例ででるととてもわかりやすいですね。

ようは、大人は無駄な口出しや手助けはするな、ということなのかな。

 

さらに読み進めると、逆に、

・鼻の穴をほじる

・子どもがテーブルに足を乗せる

・友達をこづく、暴力を振舞おうとする

といった行為は、 NGということが書いて有ります。

 

例だとありがたい。なんとなーく、わかってきた気がします。

これが、規律にあたる部分だそうですよ。

 

ちなみに、一般的な教師はモンテッソーリ教育の教師になるのに上記のようなことでかなり苦労するけれど、

より広い科学的教養と実験の経験を持つ教師は、早く慣れ驚きと興味を感じる、とも書いていました。

 

子供達は善悪をきっぱり区別できるように

 

普通の教育の問題と差について述べている以下点は、とても興味深いなと感じました。

 

1つの部屋にいる子ども全員が、粗野な振る舞いをすることなく、

知的で自発的で目的になかなった動きをする、

規律が非常によく身についている子どもたちとはそうあるべきだと私は思います

 

普通の学校のように、子供達に整列させ、席を定め、決められた秩序を守っていると見えるように動かずにいるよう強いモロメルことは、動き方の集団教育としてもっと後になってできるようになることです

 

 

 

子どもの発見

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